幸田です。
HallBrothersヒストリーは第5弾は、作品の方向性が少しずつ変わっていく頃のことです。

2010.6月『家族耐久 久保家』
『家族耐久』というタイトルですが、60分の短編を『野口家』と『久保家』バージョンで2本作りました。

2010.6月『家族耐久 野口家』
これはねー、タイトルがあまり好きではないですね。
タイトルが決まらなくて決まらなくて、何となくつけたんです。そういうタイトルはダメなんですよ。
この作品あたりから以前は、今思うとテキトーにしか芝居を作っていなかったですね。
この作品の一つ前、これからご紹介する『饒舌な足裏』からやっと少しだけちゃんと考えるようになったんですが、その前はホントに考えてなかった(笑)
今思えば、ですが、あんな作り方でいい作品ができるわけないだろ、って感じです。
この『家族耐久』も『饒舌な足裏』を経て少しだけ考えて作れるようにはなっていましたが、まだ足りない。
同じ舞台装置で(小道具は変えるけど)、違うふた家族を描く短編というコンセプトは良かったんですが、しっかり考えて書けていなかった。
このコンセプトでまたいつかきちんと書きたいですね。

2009.12月『饒舌な足裏』
DDシアターというNPO法人FPAPの企画で京都の劇団、MONOの土田英生さんをドラマドクターにお迎えしての作品。
ドラマドクターって何だという説明が難しいですけど、まあ、脚本や演出について色々アドバイスをくれる人、と言えばいいでしょうか。
この企画も土田さんに劇作のアドバイスをもらいながら一本の作品を作っていったんですが…
めちゃくちゃ怒られました。
先ほどの『家族耐久』の時に書きましたが、僕、ホントに何も考えていなかったですからね。
第一回目の土田さんからアドバイスをもらう時にプロットを書いてくるように言われていたんですが、京都への新幹線の中で慌てて書きましたから…そんなやつだったのです、僕は(苦笑)
当然、バレてました。「これ何も考えてないよね?」と。
今思えば穴があったら入りたい気持ちですが、当時はわからなかった。何を持ってして何も考えていない、と言われているのかわからなかったんですね。
「何がわからないかわからない」状態だったと言うんでしょうか、「考えなければいけないポイントがどこか」というのがわからなかったんですね。
それまでは思いつくままにテキトーに書いていたので、矛盾しているところや支離滅裂なところに気付けないんですね。そんなこと考えたこともなかったから。
改めて自分の書いたものを客観的に眺めることや、俯瞰して眺めることをやっていなかったのでわかるわけがないのです。
ですから、大変苦労しました。
この企画は劇団から「この作家さんにお願いしたいです」と希望を出すところからスタートするんですが、自分で頼んでおきながら当時はホントに後悔しました(笑)嫌で嫌でしょうがなかったし、毎回、何を怒られているのか全くわからなかった。
でも、この時があるから今があるんですよね……
劇作のみならず演出についても怒られ、いや、アドバイスいただいて、ホントに良かったと思っています。
この時に教えていただいた劇作や演出のことは基本中の基本のことばかりなんです。
でも、僕は何もわかっていなかった。
高校の演劇部で初めて演劇と出会って、特に力を入れている顧問がいたわけでもない部活で、先輩たちの芝居を見ながら見よう見まねで始めて、卒業してすぐに劇団活動始めて、やっぱりよその劇団の見よう見まねで作って、という感じでやってきたので、わかるわけがないんですよね。誰かにちゃんと教わったことなんてないわけですから。
いや、センスのある人はそんな状態でも自分の中でうまく理論化して、作品作りに生かしていくんでしょうけど、残念ながら僕にはそんなセンスもなかったし、賢くもなかった。
なので、ずっと漠然としたまま、なんとなく芝居を作り続けてきていたんです。
あの時、土田さんに出会えてホントによかった。
……と、この話、延々続きそうなのでこのあたりで。
それではまた。
HallBrothersヒストリーは第5弾は、作品の方向性が少しずつ変わっていく頃のことです。

2010.6月『家族耐久 久保家』
『家族耐久』というタイトルですが、60分の短編を『野口家』と『久保家』バージョンで2本作りました。

2010.6月『家族耐久 野口家』
これはねー、タイトルがあまり好きではないですね。
タイトルが決まらなくて決まらなくて、何となくつけたんです。そういうタイトルはダメなんですよ。
この作品あたりから以前は、今思うとテキトーにしか芝居を作っていなかったですね。
この作品の一つ前、これからご紹介する『饒舌な足裏』からやっと少しだけちゃんと考えるようになったんですが、その前はホントに考えてなかった(笑)
今思えば、ですが、あんな作り方でいい作品ができるわけないだろ、って感じです。
この『家族耐久』も『饒舌な足裏』を経て少しだけ考えて作れるようにはなっていましたが、まだ足りない。
同じ舞台装置で(小道具は変えるけど)、違うふた家族を描く短編というコンセプトは良かったんですが、しっかり考えて書けていなかった。
このコンセプトでまたいつかきちんと書きたいですね。

2009.12月『饒舌な足裏』
DDシアターというNPO法人FPAPの企画で京都の劇団、MONOの土田英生さんをドラマドクターにお迎えしての作品。
ドラマドクターって何だという説明が難しいですけど、まあ、脚本や演出について色々アドバイスをくれる人、と言えばいいでしょうか。
この企画も土田さんに劇作のアドバイスをもらいながら一本の作品を作っていったんですが…
めちゃくちゃ怒られました。
先ほどの『家族耐久』の時に書きましたが、僕、ホントに何も考えていなかったですからね。
第一回目の土田さんからアドバイスをもらう時にプロットを書いてくるように言われていたんですが、京都への新幹線の中で慌てて書きましたから…そんなやつだったのです、僕は(苦笑)
当然、バレてました。「これ何も考えてないよね?」と。
今思えば穴があったら入りたい気持ちですが、当時はわからなかった。何を持ってして何も考えていない、と言われているのかわからなかったんですね。
「何がわからないかわからない」状態だったと言うんでしょうか、「考えなければいけないポイントがどこか」というのがわからなかったんですね。
それまでは思いつくままにテキトーに書いていたので、矛盾しているところや支離滅裂なところに気付けないんですね。そんなこと考えたこともなかったから。
改めて自分の書いたものを客観的に眺めることや、俯瞰して眺めることをやっていなかったのでわかるわけがないのです。
ですから、大変苦労しました。
この企画は劇団から「この作家さんにお願いしたいです」と希望を出すところからスタートするんですが、自分で頼んでおきながら当時はホントに後悔しました(笑)嫌で嫌でしょうがなかったし、毎回、何を怒られているのか全くわからなかった。
でも、この時があるから今があるんですよね……
劇作のみならず演出についても怒られ、いや、アドバイスいただいて、ホントに良かったと思っています。
この時に教えていただいた劇作や演出のことは基本中の基本のことばかりなんです。
でも、僕は何もわかっていなかった。
高校の演劇部で初めて演劇と出会って、特に力を入れている顧問がいたわけでもない部活で、先輩たちの芝居を見ながら見よう見まねで始めて、卒業してすぐに劇団活動始めて、やっぱりよその劇団の見よう見まねで作って、という感じでやってきたので、わかるわけがないんですよね。誰かにちゃんと教わったことなんてないわけですから。
いや、センスのある人はそんな状態でも自分の中でうまく理論化して、作品作りに生かしていくんでしょうけど、残念ながら僕にはそんなセンスもなかったし、賢くもなかった。
なので、ずっと漠然としたまま、なんとなく芝居を作り続けてきていたんです。
あの時、土田さんに出会えてホントによかった。
……と、この話、延々続きそうなのでこのあたりで。
それではまた。